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一節に寄りかかる前に、戻して読む

切り出された一節は、もともと属していた段落から離れています。一分もかからない確認をいくつかするだけで、意味を逆に読む事故はほとんど防げます。

画面やカードや、送られてきた画像の上に一節だけ載っているとき、その一節はすでにどこかの段落から取り出されています。取り出すこと自体は悪いことではありません——人が文章を引用してきた歴史は長い。ただ、取り出すと一緒に外れるものがあります。制約です。まわりの文がその一節の指しうる範囲を狭めていたのに、それが外れる。

だから妙なことが起きます。同じ一節が、正反対の主張を支えるために使われ、しかも双方が「字面どおりに読んでいる」と思っている。

このページで渡すのは、短い確認の手順と、ほとんど誰もが一度は逆に読んだことのある六つの箇所です。びくびく読むためではありません。手順のほうは本当に一分で終わります。引用は King James Version(パブリックドメイン)を英語のまま挙げ、意味は日本語で説明します。

一分の確認

  1. 前を一節、後ろを一節読む。誤読の大半はここで消えます。
  2. 誰が言っているか、誰に言っているか。地の文か、手紙の書き手か、詩人か、それとも登場人物か。登場人物は間違ったことを言います。
  3. どの文体か。律法条文、物語、詩、箴言、手紙の議論、黙示文学は、それぞれ性質のちがう文です。
  4. 文頭に「だから」「しかし」「なぜなら」がないか。これらは継ぎ手で、その文が前の文の帰結や逆接であることを示しています。切り離すと継ぎ手が宙に浮きます。
  5. 特定の人・特定の集団に、特定の状況で言われたことか、それとも一般的な原則か。どちらも存在します。混ぜると事故が起きます。
  6. 「何が起きたかを書いている」のか、「こうすべきだと言っている」のか。聖書は、賛成していないことも大量に記録します。

よく逆に読まれる六つ

フィリピの信徒への手紙 4:13

"I can do all things through Christ which strengtheneth me." 力を与えてくださる方によって、自分はすべてのことができる、というほどの意味です。試験前のメモやスポーツウェアに載ると、「信じていれば何でも成し遂げられる」という文に見えます。

四節さかのぼると、続いているのは別の話です。"I know both how to be abased, and I know how to abound... both to be full and to be hungry, both to abound and to suffer need."(4:12)——低くされることも、豊かであることも、満腹も空腹も知っている、と言っています。パウロが語っているのは、境遇の両端のどちらに置かれても立っていられるようになった、ということです。「すべてのこと」とは、直前に挙げたそれらの境遇のことで、やりたい事業のことではありません。

つまり、もともと忍耐についての文が、成功についての文として読まれている。向きがほぼ逆です。

マタイによる福音書 18:20

"For where two or three are gathered together in my name, there am I in the midst of them." 人数の少ない集まりを励ますのに使われるのが普通です。

その励まし自体に問題はありませんが、この段落が扱っているのは別のことです。15節から、兄弟の間で過ちがあったときにどうするか——まず二人だけで話し、聞き入れなければ一人か二人を連れて行き、それでも聞かなければ教会に告げる、という手順が述べられます。「二人か三人」は、この文脈では証人の人数に近い。「少人数の集まりにも神はおられる」と読むのは大外れではありませんが、それは紛争処理の手続きを述べた文章から借りてきた読み方です。もとが何の話かを知っていれば、少なくとも人数が多いときに割引されている気にはなりません。

ヨハネの黙示録 3:20

"Behold, I stand at the door, and knock: if any man hear my voice, and open the door, I will come in to him." 戸の外に立って叩いている、という有名な場面で、まだ信じていない人に向けて使われることがほとんどです。

ところがこれはラオディキアの教会に宛てられた言葉です。すでに中にいる人たち、しかも「熱くも冷たくもない」と言われている人たちに向けられている。戸の外に立っているのは、自分の教会から締め出されている側です。通常の使われ方より、この絵はずっと厳しい。

詩編 46:10

"Be still, and know that I am God." 静かな音楽をつけて、落ち着きなさいという勧めとして読まれることが多い箇所です。

詩編46全体が語っているのは、地が揺れ、水が鳴りとどろき、国々が騒ぎ、戦いがやむ、という光景です。この一句はその只中で言われていて、語調はむしろ「やめよ」に近い。騒いでいる側に向けられた言葉であって、不安な人に向けられた言葉ではありません。

正直に書いておくべき点があります。原文の語気の強さについては研究者のあいだで読みが分かれていて、「静まれ」と読む人も「手を止めよ」と読む人もいます。ただ、どちらを取っても、静かな部屋で言われた言葉ではありません。

箴言 22:6

"Train up a child in the way he should go: and when he is old, he will not depart from it." 子どもを進むべき道にしたがって育てれば、年をとってもそこから離れない、というほどの意味です。これを約束として受け取った親は、子が別の道を選んだときに、それを自分の失敗として数えます。

箴言は箴言です。この書の文体は格言で、たいていそうなる、ということを語ります。一件ずつ履行される保証ではありません。同じ書の中に、正しい人が苦しむことも、悪い人が一時栄えることも書かれています。格言を契約として読むのは、この文体のいちばんよくある誤用で、しかもその代償はたいてい、いちばん真面目に読んだ人が払います。

マタイによる福音書 7:1

"Judge not, that ye be not judged." おそらく今日いちばん多く引用され、いちばん短く切られている一節です。

すぐ後ろの数節は、同じことの残り半分を述べています。まず自分の目から梁を取り除け、そうすればはっきり見えて、兄弟の目のちりを取り除ける(7:3-5)。段落全体が語っているのは順序と基準の一貫性であって、判断そのものの廃止ではありません。同じ流れの終わりには "by their fruits ye shall know them"(7:20)——その実で見分けられる、という文があり、これ自体が判断です。

この例が面白いのは、短く切ると「どんな議論でも打ち切れる文」になるのに、原文がやっているのはむしろ逆——まず自分を処理せよ、と要求している点です。

「記録している」のか「主張している」のか

これは項を分けて書く価値があります。いちばん間違えやすく、しかも間違えたことに気づかれにくいからです。

聖書には物語が大量にあり、物語の既定の動作は記録です。士師記に書かれている多くのこと、列王記に書かれている多くのこと、族長たちの振る舞いの多くは、記録されているだけで、賛成されているわけではありません。読んでいて居心地が悪くなるように書かれている箇所すらあります。

物語の立場を判断するには別の手がかりを見ます。語り手が論評しているか、結末がどうなっているか、その挿話が書全体の構成のどこに置かれているか。こうした判断自体、研究者のあいだで議論があり、複数の読み方がそれぞれ理由を持っています。誠実なやり方は、自分がいま解釈をしているのだと分かっていることで、単に写しているだけだと思わないことです。

文体は、思っているより効く

同じ一文でも、文体が変われば性質が変わります。これは信じるかどうかとは関係なく、古代の文章を読むときに誰もがやることです。

Glow の立ち位置

Glow は一画面に一節だけ出すアプリなので、ここに書いた問題はそのまま当てはまります。避けようがありません——一節を切り出すことは、段落から取り出すことだからです。

そのうえでしているのは、戸を開けたままにしておくことです。聖書全巻がアプリの中にあり、マイページから入れるので、ある節が気になったらその章をそのまま開けます。別のアプリを探す必要も、通信も要りません。このページが本当に勧めたい動作はひとつだけ——前を一節、後ろを一節読む——で、それはアプリの中で完結します。

もうひとつ、節の下に自分の言葉で一行書けます。「これは誰が誰に言ったのか」を書くのは良い使い方です。書くために、一度見に行くことになるからです。

よくある質問

文脈に戻して読むとは、具体的に何をすることですか

最低限は、前を一節・後ろを一節読み、誰が誰に言っているか、どの文体かを確かめることです。誤読の大半はこれで消えます。もう少し確実にしたいなら、その章を通しで読んでください。

フィリピ4:13 は結局どういう意味ですか

四節さかのぼると、パウロは豊かなときも乏しいときも立っていられるようになった、と述べています。「すべてのこと」はその境遇を指していて、話の主題は忍耐です。何でも成し遂げられる、という意味ではありません。

一日一節のアプリは、そもそも文脈を切っているのでは

構造的にはそのとおりです。切り出された時点でもとの段落から離れていますし、この種の選び方は励ましになる読みやすい句に偏ります。手当ては小さくて済みます。前後を一節ずつ読むこと、週に一度どれかの章を丸ごと開くことです。

聖書に書かれていることは、聖書が賛成していることですか

違います。物語の既定の動作は記録で、記録されたことの多くは賛成されていません。立場を見分けるには、語り手の論評、結末、書全体での位置づけを見ます。そしてその判断自体、研究者のあいだで議論があります。

箴言の言葉は約束ですか

箴言の文体は格言で、たいていそうなる、ということを述べます。一件ずつ履行される保証ではありません。契約として読むのがこの書のいちばんよくある誤用で、いちばん真面目な読者を傷つけます。

一節だけ、まわりを空けて

Glow は画面に聖句をひとつだけ、静かに置きます。訳は King James Version、World English Bible、中国語の和合本から選べます。しばらく眺めても、読み上げさせても、手元に残しても、下に一行書いても、次へ送ってもかまいません。きちんと読みたい日のために聖書全巻もアプリの中にあります。無料、完全オフライン、アカウント不要、広告なし。

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