レクチオ・ディヴィナとは何か
短い箇所をゆっくり何度も読む、修道院由来の読み方。四つの段階の中身と、それが手順書ではないと言われる理由、そして十分でできる形。
レクチオ・ディヴィナ(lectio divina)は、日本語では「聖なる読書」「霊的読書」などと訳されますが、定訳が一つに定まっているわけではありません。ラテン語のまま呼ばれることも多く、このページでもそうします。
中身を一行で言えば、短い箇所を、ゆっくり、何度も読むことです。量を進めるための読み方ではなく、むしろ量が進まないことを前提にした読み方です。
先に断っておきます。このページは歴史と方法の説明であって、健康や心理的な効果についての主張は一切しません。また、この実践を伝えてきた人たちは一貫して、これは技法ではなく祈りだと言います。ここではその言い分もそのまま紹介します。引用は King James Version(パブリックドメイン)を英語のまま挙げ、意味は日本語で説明します。
どこから来たのか
起源を一点に定めることはできません。聖書の言葉を反芻するという実践自体は古く、詩編1:2 が "in his law doth he meditate day and night" ——その律法を昼も夜も思いめぐらす、と言うような読み方は、黙読が一般的でなかった時代の、声に出して繰り返す読書に近いものでした。
修道院の読書
西方の修道生活では、聖書を読む時間が生活の柱の一つとして日課に組み込まれていました。ベネディクトの戒律は、労働や祈りと並んで読書のための時間を定めています。ここでの読書は情報を得るためのものではなく、同じ本文に何度も戻る種類のものでした。
グイゴ2世の「梯子」
四つの段階として整理された形がよく知られているのは、十二世紀のカルトゥジア会士グイゴ2世が書いた『修道士の梯子』によります。読書(lectio)、黙想(meditatio)、祈り(oratio)、観想(contemplatio)が梯子の段として並べられ、後世この四段階がレクチオ・ディヴィナの標準的な説明になりました。
ここで公平に書いておくべきことがあります。四段階という整理はグイゴの著作に負うものであって、それ以前の実践がこの順序で行われていたと考えられているわけではありません。また、二十世紀以降に広まった形は、修道院の生活から取り出して個人向けに整えたものです。歴史的な連続性をどこまで見るかについては、書く人によって温度差があります。
四つの段階
lectio ── 読む
短い箇所を、声に出して、ゆっくり読みます。数節で十分で、一節でもかまいません。目的は内容を把握することではなく、言葉が耳に入ることです。同じ箇所を二度、三度読みます。
meditatio ── 反芻する
引っかかった語や句のところに留まります。分析ではありません。伝統的にはこの動作を、動物が反芻することや、口の中で転がすことに喩えてきました。なぜこの語が引っかかったのか、この語は他のどこで出てきたか、といったことがひとりでに浮かんでくるのに任せます。
oratio ── 応答する
浮かんできたことを言葉にして返します。整った祈りである必要はなく、一行でかまいません。ここで読書は一方通行でなくなる、というのが伝統的な説明です。
contemplatio ── 黙って留まる
言葉を止めて、そのまま座っています。何かを生み出す段階ではありません。この段階については説明そのものが人によってかなり違い、「何もしない」と説明する人もいれば、そもそも自分の手で到達するものではないと言う人もいます。
四つを順に上がっていく梯子として教える人もいれば、行ったり来たりするものだと言う人も、順序にこだわらないほうがいいと言う人もいます。手順書として扱うと、たいていうまくいかない、というのは多くの実践者が口をそろえて言うところです。
十分でできる形
- 短い箇所を選ぶ。数節、または一節。多いほど良いという読み方ではありません。
- 声に出してゆっくり一度読む。急いでいる自覚があるなら、もう一度。
- 引っかかった語を一つだけ拾う。理由を説明しようとしない。
- その語のところに戻りながら、もう一度全体を読む。
- 一行だけ、自分の言葉で返す。書いてもいいし、口に出すだけでもいい。
- 一分でいいので、何も言わずに座る。時計は見なくてかまいません。
- 翌日、同じ箇所でもう一度やる。数日同じでかまいません。むしろそのほうが本来の形に近い。
この形には、進度も達成もありません。それが要点です。今日はうまくいったとか、いかなかったとか、そういう採点をしないことが伝統的に強調されてきました。
なぜ速い流し読みと相性が悪いのか
新しいものが次々に来る読み方は、それはそれで役に立ちます。目に触れる範囲が広がるし、自分では選ばない箇所に出会えます。ただ、レクチオ・ディヴィナが求めているのは反対の条件です——同じ本文に、何度も、日をまたいで戻ること。
だから「毎日ちがう聖句が届く」という仕組みは、この読み方にとってはむしろ逆風です。使うとしたら、届いた一節をその日のうちに消費せず、数日そこに置いておく、という使い方になります。
よくある誤解
- 瞑想法ではありません。少なくとも実践者たちはそう説明しません。彼らはこれを祈りだと言い、集中や落ち着きを目的とした技法ではないと明言します。
- 注解を読むこととは別です。調べる読書には調べる読書の場所がありますが、この読み方の中では脇に置かれます。
- 正しくやる方法があるわけではありません。四段階の説明が教える人によって違うこと自体が、その証拠のようなものです。
- 長時間である必要はありません。修道院の日課は長かったのは事実ですが、短い時間でできない形ではありません。
- 何かが起きなければ失敗、ということもありません。ほとんどの日は何も起きません。
Glow が向いているところと、向いていないところ
はじめに、はっきりと。Glow はレクチオ・ディヴィナのためのアプリではありません。段階を案内する機能も、タイマーも、記録もありません。それを名乗るつもりもありません。
そのうえで、形として合っている点はいくつかあります。一画面に一節だけで、まわりが空いているので、急かされずに何度も読めます。読み上げがあるので、lectio を声で受け取ることができます——もともと声に出して読むところから来た実践なので、これは案外そのままの用途です。節の下に一行書けるので、oratio に当たる短い応答を置く場所があります。
そして、同じ箇所に数日留まりたい場合は、その節を保存しておけば翌日また開けます。聖書全巻がアプリの中にあるので、数節をまとめて読みたいときはその章を開けばいい。通知は一切出ないので、静かに座っている一分を中断されることはありません——そもそも中断する手段がアプリにありません。
よくある質問
レクチオ・ディヴィナとは何ですか
短い聖書箇所をゆっくり何度も読む、修道院由来の読み方です。読書・黙想・祈り・観想という四つの段階で説明されることが多く、この整理は十二世紀のグイゴ2世『修道士の梯子』に負っています。日本語の呼び方は「聖なる読書」「霊的読書」などと一定していません。
四つの段階は順番どおりにやらないといけませんか
教える人によって説明が違います。梯子として順に上がると教える人も、行き来するものだと言う人も、順序にこだわらないほうがよいと言う人もいます。手順書として扱うとうまくいかない、という点は多くの実践者が一致して言うところです。
瞑想やマインドフルネスと同じものですか
実践者たちはそうは説明しません。彼らはこれを祈りだと言い、落ち着きや集中を目的とした技法ではないと明言します。このページも効果についての主張はしません。
どのくらいの長さの箇所を読むのですか
数節、あるいは一節です。量を進める読み方ではありません。同じ箇所に数日留まるほうが、むしろ本来の形に近いとされます。
Glow でレクチオ・ディヴィナはできますか
Glow はそのためのアプリではなく、段階を案内する機能もタイマーもありません。ただ、一画面一節でまわりが空いていること、読み上げがあること、下に一行書けること、同じ節を保存して翌日また開けること、通知が一切ないことは、ゆっくり読み返す使い方と相性がよいはずです。
一節だけ、まわりを空けて
Glow は画面に聖句をひとつだけ、静かに置きます。訳は King James Version、World English Bible、中国語の和合本から選べます。しばらく眺めても、読み上げさせても、手元に残しても、下に一行書いても、次へ送ってもかまいません。きちんと読みたい日のために聖書全巻もアプリの中にあります。無料、完全オフライン、アカウント不要、広告なし。